シャネルの実権を握っているのは ヴェルテメール一族である
シャネル (Chanel)は、ココ・シャネルが興したファッションブランド、および同ブランドを展開する企業である。レディース商品を中心に展開しており、服飾・化粧品・香水・宝飾品・時計と展開分野は幅広い。1910年、ココ・シャネルがパリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という帽子専門店を開店したのが始まり。シャネル:wiki
実はシャネル S.A は、シャネルの一族や親族が経営しているわけではなく、生涯未婚で子供もいない事から、ココ・シャネルは一代の人である。
現在の会社の全権を握っているのは、ヴェルテメール一族である。ココ・シャネルが創始したブランドを経営しているのは、血縁的にまったく関係のない富裕層である。
現在のオーナー、アラン・ヴェルテメールの祖父、ピエールがココ・シャネルに出会ったのは 1922年。正式にビジネスパートナーになったのは、1924年の事である。
シャネルという企業は、ココ・シャネルとビジネスパートナーだった富裕層が、資本を投資している投資家 兼 経営者が、実質的にすべてを握っている。まさに “ヴェルテメール”の会社なのである。
ココの創業から休業時代:個人商店からビジネスへ名声の確立
シャネルは、1910年にパリで帽子店を創業させる。1921年発表した香水 「シャネル N゜5」 が事業を拡大させ、個人商店の帽子店から企業へと成長する事になる。
初代調香師エルネスト・ボーの協力を得ながらも、当時はまだ ココ・シャネルは、量産・流通のノウハウと設備を持ち合わせていなかった。
初期はボーの研究室で生産し、ココの商店で販売するという家内制手工業的な販売モデルであったようだ。当時は、個人事業の完全な脱却にまだ至っていないという事がわかる。
ココ・シャネルはやがて資金力を有し、販売チャネルがあり、生産ノウハウを持つ企業との提携を考えるようになる。その際に出会う事になるのが、ピエール・ヴェルテメールである。
彼は、ココ・シャネルが手がけている香水の手工業的製造販売をより発展させ、企業的な香水ビジネスに成長させた ビジネスパートナー 兼 投資家である。
1922年、パリの有名百貨店 「ギャラリー・ラファイエット」 創業者のテオフィル・ベイダーの紹介でココとピエールは知り合う事になる。
ピエールは当時から化粧品と香水でフランス一の大企業ブルジュワのオーナーであり、投資家・経営者でもあり、生産と流通両方のインフラとノウハウを有していた。
シャネル香水会社創設とピエール・ヴェルテメールとの亀裂
1924年、シャネル香水会社が創設され、フランスのヌイイーに工場を設立、ココ・シャネルは初代会長として株式の10%を保有し、残り70%はピエールが、20%がベルダーが保有する事になる。
シャネルのようなクチュリエが、有力香水企業と提携し香水事業を拡大、クチュール事業の資金源にするビジネス手法は、その後の香水産業における基本的手法のひとつとなったようである。
LVMHで取り上げた流行の激しいクチュール事業を安定した財源を生み出すシャンパンなどのワインスピリッツ部門が受け持つビジネスモデルに似ている。

1934年には、ピエール・ヴェルテメールとココ・シャネルに亀裂が生じる。同社が化粧品をシャネルのブランド名で販売したのに対し 「シャネルのイメージが壊れる」 とココが抗議し、会長を辞任した。
この時に生じた亀裂は、1947年の暫定和解まで続く事になる。ビジネスで生計を立て成功したいシャネルは、数々の問題を抱え続ける。
香水事業の他に、リトル・ブラック・ドレスやシャネルスーツなど、シャネルを象徴するアイコンやスタイルを次々に生み出し、名声を確立。
徐々にラグジュアリー・ブランド企業へと変貌していく事になる。
ココ亡命時の空白時代とヴェルテメールの米国市場の拡大
1939年、約4000人を抱える大企業として成長したシャネル。コレクション前の苛烈な労働条件により、労働者側がストライキを敢行。
また第二次世界大戦により、アクセサリーと香水部門を残し、パリのブティックを閉める。戦乱を避けて一時渡ったアメリカでは、ヴェルテメール家はシャネルブランドで香水の製造販売を行う。
その一方ココ・シャネルは、欧州中心に独自のシャネルブランドの香水製造販売を行っていた。

第二次世界大戦中の1940年、シャネルはドイツの国家保安本部SD局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将と懇意になる。1944年のシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス軍と連合国軍によるフランス解放後に逮捕され、「対独協力者」、「売国奴」としてフランス中からの非難を浴びた。英国首相であるチャーチルの計らいにより釈放され、シェレンベルクとともに戦後の数年間スイスのローザンヌへ脱出し亡命生活を送った。対独協力と亡命-wiki
フランスに残ったシャネルの活動はその後様々な面でマイナスの評価を受けてしまう。だがこの場合、この時代で女性がひとり生きて行こうと考えるのであれば、致し方ないことだろう。
そのパリ陥落後、ココ・シャネルはパリに留まり、シャネル社の権利に執着し取り戻そうと画策する。しかし、アメリカに逃れたヴェルテメールは、フランス側に残った関係者を通じて権利を巧妙に守りきる。
両者の亀裂は、1947年に暫定和解が成立。ココ・シャネルが香水会社の経営から退き、活動範囲と金銭面の調整により、オートクチュールに専念する代わりに、販売権利金と株の配当利益を受け取るという条件であったようだ。
ヴェルテメール家のシャネル社の株式所有比率は、ベイダーの持分の買取もあり、同年80%の株式を握ることになる。戦争中に行ったヴェルテメールの戦略がなければ、今日のシャネルもなかっただろう。
巧妙に権利を守った事もそうだが、「シャネル N゜5」の元になるジャスミンやバラのエッセンスをグラース地方から避難させたのは、ピエール・ヴェルテメールである。
彼は亡命中に人を使い、「シャネル N゜5」に欠かせない貴重なエッセンスとレシピを救い出す事に成功している。
シェレンベルクとともに戦後の数年間スイスのローザンヌへ脱出し亡命生活を送ったあとコレクションを復活させた際、まずアメリカ市場で受け入れられたのは、香水「シャネル N゜5」のアメリカでのセールスの地盤が出来ていたからに他ならない。
戦時中にシャネルブランドを見限らなかった先見の明は流石である。
ココ・シャネルの復活から死去までの時代
1954年、ココ・シャネルが閉店していたブティックを再開させる為に、ヴェルテメールにビジネス上のアドバイス並びに資金供給を依頼。
それを受け入れコレクションを再開する事になる。今回、復活させる為に、投資並びにアドバイスをするとしたヴェルテメールの考えは以下の2点に集約される。
1. ココ・シャネルの才能とエネルギーに敬服
2. クチュール復活によって得られるイメージが、香水事業を発展させる唯一の要因
再びヴェルテメールの支援を受けて、ココ・シャネルは1954年にコレクションを再開、復活を果たす。
フランス国内での評判は散々であったが、アメリカでは支持される事になる。
またマリリン・モンローが香水「シャネル N゜5」のファンであり、JFK暗殺時に一緒にいたジャクリーン・ケネディの血に染まった服が、シャネルのピンクのスーツであった事など、偶然にもメディアに注目度の高い著名人が愛用していた事により、ココ・シャネル社は復活を果たす事になる。
シャネル企業方針:一部を除きライセンスビジネスには手を染めない
企業方針が 「ライセンスビジネスには手を染めない」 事である。これは非常に賢明な経営戦略である。
シャネルのファッションがアメリカでの爆発的人気を見て、ココ・シャネルは高級洋服店やメーカーにオリジナル作品やパターンを売り、自由にコピーさせたが、決してグリフ (その店の製品である事を示す印) を使わせなかった。
他の多くのクチュールブランドは、オリジナル作品やパターン、グリフを高額に売り、ライセンスをして儲けるという基本パターンを経営上の利潤としたが、シャネル社は断固としてそれを認めていない。
一時、ライセンスまがいの製品が溢れ、質の低下が見られたが、最近では完全なコントロールがなされ、二次市場でも高額で取引されている。ライセンスやアウトレットに手を染めたブランドは、凋落するスピードを早める。
ルイ・ヴィトンなどは、アウトレットもなく、ライセンスなども皆無であり、ブランドの価値と高額な売価を守るのは、「ライセンスビジネスには手を染めない」事である。引いてはブランド力の向上にもつながる。
ココ・シャネルが復活する事で、ヴェルテメールとの取引を行う。
ココ・シャネルが生きている限り、死ぬまでカンボン通りの本店の賃料と税金を含むココ・シャネルの個人的な経費を肩代わりする代わりに、服と香水に「シャネル」の名を冠する権利をヴェルテメールが有する事とする内容である。
経営並びに知的財産権などをすべてヴェルテメールが所有する事で、完全にヴェルテメール家の企業として完成した事になる。
復活以降 「チェーンショルダー」「バイカラーシューズ」 など後のシャネルの象徴的なアイコンやスタイル、一連の製品を残し、1971年、87歳でココ・シャネルは生涯を閉じる。
生涯独身で後継者を残さなかったココ・シャネル。ココ・シャネルの死後は、ヴェルテメール家が株式を100%所有する事になり、今日の企業の原型が完成する事になる。
参照:シャネルの戦略 ―究極のラグジュアリーブランドに見る技術経営
参照記事 【CC_HACKS】シャネル・マトラッセ 簡単に偽物を見分ける 12 の真贋方法