丁稚奉公で見た老舗時計店、将来 時計店を経営する夢を叶え、地方財閥を作り上げたひとりの少年
家業。実に多くの人々が創業し、そこで働き、多くの顧客に優れた商品やサービスを届け、利潤を上げる優れた資本を持ちたいと願うものである。
家業を大きく成長させ、一代もしくは数代で、独占的出資による資本を中心に結合した巨大な経営形態、所謂「財閥 」を築き上げた人々がいるのをご存知であろうか。
今回は、日本人が身近に感じている多くの商品が、あの地方財閥が経営している企業であり、地方の勢力が国内並びに世界で、ブランドを展開してきたか取り上げておきたい。参照としたのは、【日本の地方財閥30家 知られざる経済名門 】という書籍を参照としている。
日本全国の地方財閥をコンパクトに網羅しており、地方の財閥・資産家をバランスよく選び出し、何代何十年もその地域の高額資産を誇り、地方経済で無視しえない家系を地域・事業に分けて紹介している。
それぞれ家業を発展し、どうブランドとして作り上げたのか、その事業の戦略と成長を加速させた着眼点を何回かに渡って取り上げておきたい。
あなたが就活生であれば、就職を考えている企業が、いかに作られたかを調べることに丁度良いし、ビジネスマンであれば、新規事業や既存事業で、取引先の方が財閥系の企業の関係者かもしれない。
また創業を考えている人であれば、ビジネスモデルの構築や事業成長のヒントとなるであろう。ご興味のある方は一読して頂きたい。
今回の主人公は、ひとりの少年が、時計屋を志しその夢を叶え成長させた話である。
中古買取修繕業から身を起こし、掛時計や腕時計の製造販売までを行い、世界のセイコーの礎を築き、「日本の時計王」とも呼ばれ、関東の地方財閥となった服部家 初代総帥、服部金太郎の経営戦略による着眼点を見ていきたい。
1. 販売以外の修繕を基本に安価な質流品や古道具屋の時計の買取販売を行う
服部金太郎は、13歳のときに洋品雑貨問屋・辻屋に丁稚奉公に出た際、近くにある小林時計店を見て、雨天の日には、辻屋も小林時計店も同じように客は少ないが、辻屋はそのような場合、店員が手持ち無沙汰なときでも、小林時計店は雨の日でも忙しく時計の修繕作業に励んでいる。
時計店は販売で利益を得ながらも、修繕によっても修繕料が得られる。大切な時間を無為に過ごさなくても良いと、時計屋の将来性に着眼し、時計店を出す事を志す。
商売を行う上で、最も大事なことは、同じ時間を掛けても、何重にも繰り返し利益が出るものに、時間を掛けるべきである。服部金太郎の着眼点はまさに見習うべきところである。
この後、服部金太郎は、いくつかの時計店で修繕技術を学び、独立のための蓄財に励み、修業先の時計店が倒産したことを契機に、18 歳になり自宅で、服部時計修繕所を立ち上げ、中古時計の修理販売を始めながら、時計店に通い時計工として技術を磨き続けた。
その後、開業資金 150 円の貯金が貯まったので、1881 年 服部時計店を創業、中古時計を買取修繕して販売する事業を開始する。
最初から新品を扱わず、物品販売業だけをしなかったのは正しく、精密機械である時計には修繕という技術は必ず必要であり、修繕しながらも自ら製造できる技術も持つことができる。
実は、新品を製造するよりも、修繕する方が難しく、深く技術に精通していなければ、出来ないことである。また新品を仕入れるよりも、質流れ品や故障した古い時計を買取修繕を行い、販売をするのは最も利益の出る商売である。
高級品であるリペアやリサイクルに着眼するというのは、現在でも通用する優れたブランド戦略なのである。
2. 従来の商習慣を打ち破り期日を守り支払いを行い取引先の絶大な信用を得る
その後、輸入時計の販売を開始した服部金太郎にとって順調に事業を拡大できた要因は、技術もさることながら、金払いの良さで、外国の業者の絶大な信頼を得る。
当時の日本は、期日通りに支払いを行う商習慣は珍しく遅れることが大半であった。
おそらく服部金太郎は、丁稚奉公時代に、資金回収や支払いの酷な現場を見て学習したのであろう。当時の常識を破り、現在と同じく期日を厳守する商取引を行う。
当時の零細ベンチャー企業であった服部時計店は、外国商館からの信頼を得て、良い商品を優先的に融通されるようになる。
服部時計店には良い商品が集まり、その品揃えの良さで、事業を着実に拡大、銀座にまで店を構えるようになる。
服部金太郎から学ぶべきところは、商売人として個人的な信用がない場合、信用を得られる最も良い方法は、約束を守りカネを払うということである。
いくら優れた技術を持っていても、納期を守らず、カネの支払が出来なければ、信用を無くし、仕事すら出来なくなる。
常識となった商習慣を疑い、人よりも一歩進化した商取引を行うことで、蓄財に励みながら、日本で初となる国産時計の製造を考えるようになり、財閥の礎は、このあたりからベースが出来上がってくる。
3. 修理の技術を製造の技術へ進化、戦争景気に乗じて、グローバルに市場を広げる
かねてより、国産の時計製造を考えていた服部金太郎は、懐中時計修繕や加工の仕事の依頼をしていた技術者を招集、1892年 時計製造工場「精工舎」を設立したのである。
精工舎では、柱時計や懐中時計の生産に成功し、販売を開始。1913年には、国産初の腕時計の製造に成功、販売を開始している。
1894年の日清戦争が勃発、機械産業は空前の好景気の波があり、その波に乗って急成長していく。その際に、銀座四丁目の角地を買収、屋上に時計台を持つビルを完成させた。現在の銀座のシンボル「服部時計塔」である。
1907年に精工舎の懐中時計「エキセント」が宮内省の指定で「恩賜の時計」に選ばれ、帝国大学や陸・海軍の大学、学習院を優秀な成績で卒業する者に与えられる時計に選ばれた。
ここで、国内でのブランド力を最大化することに成功。まさに、ラグジュアリー戦略の「王室から選ばれる」という条件を得たのである。
自身の実力を確信した服部金太郎は、清国への時計の輸出を始め、グローバルに市場を広げ始める。清国滅亡末期、1910年頃には、上海の市場を独占するまで急成長を果たす。
さらに欧州で、第一次世界大戦が勃発すると、海外の取引を多く進めていた欧州から、服部時計店に精工舎製の時計の大量注文が寄せられる。
戦争中は、材料が枯渇するものであるが、服部金太郎は、大戦後即、大量の材料を海外から調達、空前の需要増に対応することが可能となった。
他の国産メーカーは、ビジネスチャンスと分かっていても、材料が枯渇し、チャンスを生かすことが出来ず、服部時計店は、英国から目覚まし時計約 60 万個、仏国から小型の目覚まし時計約 30 万個の発注を受け納品し、驚異的な戦争景気を享受する。
欧米メーカーと覇を争うまでに、急激に成長を果たし、服部金太郎率いる「服部時計店 並びに 精工舎」は、世界の時計業界で確固たる地位を築き、財閥の礎はほぼ完成されていった。
戦争による空前の好景気を享受した企業は、後に財閥として成り上がりやすいが、セイコーもその好景気の波に上手く乗っていったのである。
商売人にとって戦争とは「ビジネスチャンス」ということが、多くの老舗大企業を調べていくと共通する条件である。
商人は、世間より一歩先に進む必要がある。ただし、一歩だけでよい。を考えると
「すべて商人は、世間より一歩先きに進む必要がある。ただし、ただ一歩だけでよい。何歩も先に進みすぎると、世間とあまり離れて預言者に近くなってしまう。商人が預言者になってしまってはいけない。」「自分は、他の人が仲間同志で商売をしているときに、外国商館から仕入れを始め、他人が商館取引を始めたときには、外国から直接輸入をしていた。他人が直輸入を始めたときには、こちらはもう自分の手で製造を始めていた。そうしてまた他人が製造を始めたときには、他より一歩進めた製品を出すことにつとめていた。」参照:THE SEIKO MUSEUM セイコーミュージアム 創業者 服部金太郎の精神
人よりも一歩先をみることが、商人にとって重要であることは、多くのビジネスを行う者にとってもはや常識である。
現在に置き換えて考えていくと、これから数年で起こりそうなブームや需要を考えていくことから始めると良いと思う。
あなたの関わる仕事や業界で、そのような近い将来起こりそうなブームや需要を見つけ、今のうちから素早くとらえることができるように準備をしておくと、あなた自身の成長にもつながり、大きく飛躍する条件を備えることができる。
そのスタートラインたる条件を持つことが出来て初めて、実力を発揮できるというものである。
例えば、現在であれば、仮想通貨のような単純にブームや需要があるからと、流行などに飛びつく感覚でいると、もうそれはすでに終わっており、投機と変わらず、市場の変化 (取引所の閉鎖や暴落) ですぐに崩壊するものである。
服部金太郎から学ぶべきことは、あなた自身が長期にわたり学習や商売や投資を続けてきて、それに関わっている分野で「世間より一歩先に進む」ことであり、それはあなたしか見つけることができないことなのである。
そして、それを見つけた人は、誰も金とは言わないが、あなた自身の金鉱脈を人より先に掘り進めれば良いである。
そして世間がそれに気が付いて、結果的に一歩先を行くことになるのである。